札幌高等裁判所 昭和63年(う)119号 判決
論旨は,要するに,本件のような道路,交通の状況のもとでは,被告人には原判示のような注意義務(注)はなく,これを認めた点で,原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認もしくは法令解釈,適用の誤りがあり,また原判決は,その点の判断過程において,理由不備あるいは理由そごの誤りを犯している,というのである。
そこで,記録を精査して検討するに,原判決挙示の関係証拠によれば,本件事故に至る経緯として,
1 被告人は,自動車販売会社に勤め新車セールスを担当していたが,本件当日営業のため函館市鍛治2丁目1番1号先交差点(日吉町方面から美原1丁目方面に向かう東西道路と本通2丁目方面から東山町方面に向かう南北道路とが交差している交差点。以下「本件交差点」という。)の南西角付近に所在するガソリンスタンドに赴き,所用を済ませた後,同スタンド構内に駐車していた普通乗用自動車に乗って北進し,同スタンド前の東西道路(中央分離帯より南側の西行き車道)に出て左方(西方)の美原1丁目方面に進行するため,同交差点の西詰めすなわち美原1丁目寄りに設けられた横断歩道に自車を向け,東西道路南側の歩道上で一時停止したこと
2 被告人は,その直後ころ(原判示の日時ころ),右方(東方)から進行してくる車両がないものと思い込み,同車両の有無及びその安全を直接には確認しないまま時速約5キロメートルで右横断歩道上(西行き車道上)に左折しながら進出したところ,その直後ころ右方(東方)から直進してくる藤兼運転の普通乗用自動車を右方約8メートル付近に発見し,急制動の措置を講じたが及ばず,同車の前部左端付近に自車右前輪付近を衝突させて,本件事故を惹起したこと
3 右藤兼は,右東西道路(中央分離帯より南側の西行き車道)を時速約30ないし40キロメートルで西進してきて,右交差点内に進入した直後ころに,左側の歩道上から同交差点西詰めの右横断歩道上(西行き車道上)に進出してくる被告人車を認め,急制動をかけたが,衝突を避けられなかったこと
などが認められる。
このような事実関係のもとで,原判決は,歩道上で一時停止をした被告人には,「車道に進出するにあたっては,右方(東方)から進行する車両の有無と,その安全を確認して進行すべき業務上の注意義務がある」とし,しかるに被告人は,「これを怠り,右方(東方)から進行してくる車両はないものと軽信して右方(東方)の安全を確認することなく,時速約5キロメートルで発進して車道に進出した過失により」本件事故を惹起させた旨認定判示し,更に,「被告人は原判示の信号機(4)(すなわち,本件交差点の北東角に南面して設置されたもの)が青色表示となったことを確認して,東西道路に進入したから,赤色又は黄色信号を無視又は看過したと思われる藤兼車のような無謀進行車両の有無を確認しなければならない注意義務はない。」旨の弁護人の主張に関し,「補足説明」のなかで,「(検察官主張のように)被告人が信号機(2)(すなわち,本件交差点の東詰めの中央分離帯上に西面して設置されたもの)を信号機(4)と見誤った可能性もないとはいえないが,そのように断ずるにはなお重大な疑いの残るところであり,他方被告人が正しく信号機(4)の青色表示を確認して右方からの通行車両はないものと考え発進した可能性もなお否定し難い」としたうえ,「被告人は交差点をその信号機の表示に従って交差点に進入したわけではなく,交差点に比較的近接する地点を路外施設から道路に進入しようとしたものであり,特に交通量の多いその道路状況をも勘案すると,単にその進入道路と交差する道路側の信号が青色表示となったことを確認しただけではその注意義務を果したものとはいえず,右方からの直進車のみならず交差道路を右左折して右方から進行してくる車両の有無を現実に確認すべき注意義務はなお存在するものというべきである。」旨判示している。
これに対して所論は,被告人は前記信号機(4)の信号が赤色灯火から青色灯火に変わったのを確認してその直後に歩道上から車道上に進出したということ,したがってまた,藤兼運転の本件被害車両が赤信号を無視又は看過して本件交差点に進入した疑いが濃厚であるということを前提にしたうえ,本件交差点の状況などからして,本件交差点を通過する車両が通常の走行を行う限り,被告人の車道進出時点において,その地点に右方(東方)からやってくる車両,すなわち被告人車と接触する危険のある車両はあり得ず,被告人において,本件被害車両のように赤信号を無視又は看過して本件交差点に進入のうえ直進してやってくる車両のあることまで予測して運転しなければならない義務はないというべきであるから,被告人に原判示のような注意義務を認めることはできない,というのである。
そこで検討するに,被告人は,歩道上から車道に進出し左折する自動車の運転者として,その車道を右方から進行してくる他の車両の進行妨害をするようなことがあってはならず(道路交通法25条の2第1項参照),したがって,原判示のとおり,歩道上から車道に進出するにあたって,右のような他の車両の有無とその安全を確認しなければならない業務上の注意義務があるのは当然のことである。ただ本件においては,車道への進出地点が,偶々,信号機の信号により交通整理の行われている交差点の直近場所であった(被告人は,交差点通過直後の西行き車道(しかも,交差点西詰めの横断歩道上)にその南側歩道上から進出して左折しようとしていた。)のであるが,そのような場合においても,交差点の信号機は,車道外の場所にある被告人車が車道に進出することについてなんら信号を表示するものではないから,所論のとおり(なお,本件交差点では,南北方向の信号機の信号が赤色灯火から青色灯火に変わった時点では,東西方向の信号機は,その2秒前から赤色灯火の信号を表示し,更にその4秒前から黄色灯火の信号を表示していたことになる。),交差点の信号を見るだけのことで右方から進行してくる車両はないものと速断して行動することは許されず,車道に進出する際の右方からの車両の現実の有無とその安全を実際に視認するなどして確かめなければならない業務上の注意義務(この義務は,車両が車道外の場所から車道に進出する際の基本的な義務であり,かつその実行は容易である。)を免れることはできないというべきである。
そして,本件で被告人が右の注意義務をつくしておれば,被告人は,右方の近接した位置(すでに本件交差点内)を藤兼車が直進中であり,これとの衝突の危険性の高いことを容易に認識することのできたことが証拠上明らかであり,したがって被告人としては,仮に右藤兼車が東西赤の信号を無視又は看過して進行中であったとしても,これとの衝突を避けるため,車道への進出を一時待たなければならず,そうすることによって本件事故を避けることのできたことが明らかである。
このように,被告人に原判示の業務上の注意義務と過失を認めた原判決は相当であり,その余の所論にかんがみ検討しても,原判決のその点の判断過程に理由不備もしくは理由そごの誤りがあるとは考えられず,また原判決の右結論に事実誤認もしくは法令解釈,適用の誤りがあるとはいえない。論旨はすべて理由がない。
…以下省略…